人間って、物事をなぜかカテゴライズしたがりませんか? 地球に生きている生物はすべて、**科**目といった形で、カテゴライズされているし、そこに当てはまらない生物を発見したときは、新種と大騒ぎする。 ずっと、ずっと昔から存在しているのに。 学問上はそういうのも当然という気もするが、もっと不思議なのは同じホモ・サピエンスというカテゴリーに属する人間の中でもさらにカテゴライズすることだ。 わかりやすいところで言うと、男女、日本人やアメリカ人、世代や年齢、健常者と障碍者などなど、カテゴライズする項目はありとあらゆるものが存在する。 そういったもので差別をしないようにと、最近はLGBTとか女性差別撤廃とかいろんなことが大きな話題となっている。しかし、どれも結局カテゴライズした上で、差別しないようにしようと言っているように見えるのだが、どう思いますか? あなたはLGBTのどれですか?とまず定義して、差別をなくそうと言っているように聞こえるのは私だけでしょうか?
たとえば、LGBTにしても、きっちりカテゴライズできないと思うのです。 普段は異性を愛するが、たまに同性も気になる人もいれば、両方関係なく好きになってしまう人もいる。 いろんな人がいろんな形で、愛する対象を持っているのに4つのカテゴリーに当てはめられるわけがない。 そして、最も大きなカテゴライズはLGBTとそうでない人という区分けです。 前者は性的マイノリティーと呼んで、きっちり、そうでない人と区分けした上で、差別しないようにと言うのはちょっと違うのではと思うのです。 本当はもっと、同性だけを愛する人と、異性だけを愛する人というだけでなく、カテゴライズできないほど、様々な人がいて、連続的につながっていると思うのですが、どうでしょう?
もう一つ別の例えをしてみましょう。 足が不自由で車椅子を使っている人は障碍者と呼ばれ、2足歩行できる人を健常者と呼ぶ例です。 これも、保険の適用だとか、いろいろな行政上の理由で区分けしなければならないのは理解できますが、本来は連続しているものです。 両足がない人から、2足歩行でも最速のウサインボルトみたいな人まで、みんな連続してつながっていて、どこかに線引きがされることはないと思うのです。 わたしは2本足で歩くことができますが、ついこの間まで車椅子でしたし、そして松葉杖をついて、今は走ることはできませんが、歩くことはできるようになりました。(骨折の影響) 同じ人間でも少しづつ変わっていくように、人それぞれも少しづつ違っていて当たり前で、逆に言えば全てのひとが違うのが当たり前。 私は世の中的には健常者と呼ばれるが、車椅子に乗ることもあれば、そうでない時もボルトからみれば、どんくさい障碍者だと思ってます。 つまり、こういう連続性を意識した上で、社会システムを構築していく必要があると思っています。
性の話に戻れば、LGBTの人が男性、女性トイレのどちらに行くべきか、負担にならないようにどうするかを考えるのではなく、全部個室トイレにしてしまえば、そんな議論すら必要がなくなると思うのです。 出身県民別のトイレなんてないでしょう? 熊本県出身の方専用のトイレがないように、男性、女性トイレをなくしてこそ、初めてすべての人が気持ちよく暮らせる社会ができると思うのです。 すべての人を平等にとは思っていません。 生物学的な男性も女性もいるし、その中間や逆の人もいる。 そういうことをすべて受け入れて、すべての人が暮らしやすい社会システムを作っていく。 そうなるべきだと思うのです。 最初にやるべきはLGBTなんて言葉を作るのではなく、むしろなくしていくことです。そして、人はそれぞれ違うということを受け入れて、みんな連続したなにかに属しているという前提で社会が成り立つとよいとおもうのですが。。
連続した、ありとあらゆる個性の人が暮らしやすい社会システムを作るのはトイレほど簡単ではありません。 これをなにかの制度でやろうとすると、無限の制度や規制が必要になります。 だから、これはそう言った物に頼らず、個々の人の力に委ねるべきです。 人に時には優しく、時には厳しく、でもいつも愛をもって接するみたいな柔軟性を持った上で、しっかりとした芯を別に持つことが大事なんだと思うのです。 ちょっと、いっていることが綺麗すぎて嘘くさくなってきましたね。 今日はこの辺で。
写真:Sergio CarabajalによるPixabayからの画像